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AT LEAST ON THE RECORD

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2022年1月7日から19日まで東京・高田馬場のAlt_Mediumにて開催した「on the record | 海をめぐって」では会場内で、今回の展覧会に際して書き下ろした小文を配布しました。記録を兼ねてここにその全文を掲載いたします。

 

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AT LEAST ON THE RECORD

 

曇り空の下、海は、降り注ぐ光を受けて雲の層よりもなお、白く写真に焼きつく。その海とわたしを隔てているのは、コンクリート造りの岸壁や、有刺鉄線をその上部に巻きつかせたフェンスである。もしくは、均された土や堅く敷かれたアスファルトの彼方において、海は、水平に伸びる一筋の光の線に過ぎないのであった。

 

わたしは7年ほど前から、二つの半島の主には海岸線にあって、次第にその輪郭を自然のなかへと溶け込ませつつある軍事的な遺構を、幾度か撮影してきた。

三浦と房総の汀では、さざなみを結晶化させたように隆起する岩場や、細胞の一片一片に光を含んで風に揺れる清冽な緑の草木が、倦むことを知らない拍動で寄せては返す波濤と触れ合う。わたしもカメラも、そうしたものたちのあいだに、潮風に揉まれながら、ともに立っていた。

また、膝を砂でこすり、泥で染め、ときには足先を水の中に沈めながら、開口部から入射する光だけをたよりにして、暗い壕のなかを写真におさめてきた。夏であっても冷たい空気が滞留するその場所で、開いたシャッターを閉じるまでのあいだ数秒そして数分と、か細くとも暗闇においては眩しい光を見ていると、あたかも自分自身が一枚の感光板と化したかのように思えるのだった。

曲がりなりにもわたしがこれまで半島をめぐる撮影行為を持続できたのには、それぞれの場所で出会う光やそれに照らされた事物の美しさによるところが大きい。

 

ところで、半島を孤島から分別する要素の一つとしては、それが「地つづき」であることが挙げられよう。半島とは、その大方が海に囲繞されながらも、一方においてより大きな陸地へとつながった土地のことである。三浦と房総という二つの半島も当然、その例に漏れることはない。

汀に沿うように、海を視覚の圏域に留めながら半島を北上していけば、景色はその様子を徐々に変えていくことがわかるはずだ。曲線を描いていた陸の輪郭は鈍色の直線へと矯められ、渚はフェンスの彼方へとやがて遠ざかっていく。たとえば横浜市磯子区に位置する円海山三浦半島北限の一端とするといったような、地理学的な定義を一旦わきに除けておけば、わたしにとって体感的な半島の境界とは、そうした視覚における連続的な変化のなかにこそ見出されたのである。

だが、そうした変化を目の当たりにしてもなお、意識のうちに留め置くべきことがある。それは、二つの半島から東京へと続く水ぎわを様々な形に彫琢してきた諸力の、決して小さいとはいえない部分が、戦争と呼ばれる歴史的な事象によって裏打ちされていたという事実だ。

 マシュー・ペリー率いる黒船到来の以前より二つの半島の沿岸部には火砲を備えつけた台場や海上監視のための遠見番所が築かれていた。そしてそれから約一世紀を経たアジア太平洋戦争末期においては、本土決戦のためにいくつもの洞窟状陣地が沿岸部に掘削された。

 それだけではない。日清、日露の両戦争を経てさらなる大国へと急激な“進化”を遂げようと欲望する日本は、川崎や鶴見に広がる葦原を巨大な重化学工場群へと変貌させた。その場所は敗戦を経たのち、朝鮮半島における大国同士の代理戦争ともいうべき動乱に際して生じた需要に乗じて再び復興を遂げるのであった。

 もし、そうしたこの国の近現代史をさらに遡って神話の領域へと足を踏み入れるならば、のちに台場が築かれることになる走水の地において弟橘媛命がその身を入水させ荒波を鎮めたのは、日本武尊が主導する軍事的遠征のためであったという物語へと、やがては突き当たるであろう。渚、汀、波打ちぎわはその輪郭線のうちに、暗々としてうねり狂う水の如き争いの記憶を、決壊寸前なほど満々と湛えているのかもしれない。

 わたしは海をめぐり歩きながら、海をめぐって変転してきたこの国の過去を想像する。

そうした過去とは、単に懐旧の対象としてのみ存在する、埃に塗れて戸棚に収まったオブジェのようなものなどでは決してあり得ず、むしろ現在と呼ばれる時代を力強く囲い込み、そのかたちを底に至るまで規定するようなある種の枠=フレームといえはしまいか。

 そして、過去は現在において、風景として在るということ。また、風景こそが、現在のわれわれ自身の姿見であるということ。わたしにはそのように思えてならない。

 そのような認識において、風景へと対峙したとき、わたしはどのように振る舞うことができるだろうか。そう問うとき、堀田善衛による次のような言葉は一本の、いまだ切れることのない、導きの糸だ。

 

政治をめぐって、かくかくしかじかのことが起こっている、あるいは起こりそうになっている、それは自分の心を犯す……。市民として、そうあるよりも、こうある方がおそらく仕合せのある道であろうと思う……。この場合、心を犯すものに対して戦う、あるいはそうあるよりもこうあるようにあらせるためにはどうしたらよいか。そういうときに、「少なくとも、最小限・記録にとどめる」ということがやって来る。〈1〉

 

 未来にだけではなく、いまこの現在においても急激な変化は訪れている。そして、変化と不可分に暴力もまた常に在り続けてきた。そのことを沈黙のうちに示しているものとは、やはり風景なのであるし、おそらくわたしにとって、そのような黙示の態を呼ぶ別の名こそが「風景」なのだといえよう。

 たとえいまは、眼前に広がる風景から変化やそれに伴う苛虐の相を読み取ることが困難であっても、光景としてとどめておきさえすれば、いずれ、もしかしたら取り返しがつかないほどに遅れてから、徴のようなものに過ぎなくとも、気づくことができるかもしれない。堀田善衛に、そして中平卓馬に倣って〈2〉、「少なくとも、最小限・記録にとどめる」(=AT LEAST ON THE RECORD)のであれば。

 

〈1〉堀田善衛「一つの傍証を求めて――“最小限・少なくとも”ということ」『週刊読書人』1968年4月29日(第723)号

〈2〉中平卓馬「写真にとって表現とは何か――〈写真一〇〇年 日本人による写真表現の歴史〉展」『デザイン批評』1968年7月(第6)号